「労働者M」行ってきた

昨晩コクーンからの帰りに、夫が近くの駅まで迎えに来てくれて、
カーラジオが偶然つけっぱなしで、いきなり今聴いてきたその曲が流れていた。
「死んじゃったなら だだの肉  生きていたって ただの肉
 働け 働け 働け 働け」(労働者M


なんか今日は仕事していても、ずっとその歌が絶えず脳内でリピート。

昨夜はねえもう、一緒に行ったくまゆうさんと帰り道に秩序を保った日本語で
お話する余力もなくなっていた私。予想を超えて芝居で自分が目一杯な状態。


ケラリーノ・サンドロヴィッチさん。あなた誰?
私に見せるためだけにこの芝居を作ってくれたの? あなたは私なの?。
と、私はキモイ思考がぐるぐる回る困った中年と化した。
ステージで歌うアイドルが、客席の自分を見てたって信じる少年少女よりも重症。


いや本当にね、私の10代と20代の計20年間をそのまま劇にしたものを
いきなり見せられてしまったと思った。伝わりにくさも分からなさも含めて。

自分が子どもの頃の生育環境のお陰で、
私が小学生時代は、尊敬する人といえばホーチミンとかレーニン
中学生時代は愛読書は小林多喜二とかチェ・ゲバラ伝。
史的唯物論とか社会変革の歴史的必然性とかは通常の日常会話の中。
それで、とてもよくある展開で、なんかある時期から
それっていったいどこの国の言葉で、何のこと話していたんでしょうっていう。
社会に順応して生活しながら志は決して忘れず、って
もうますますわけわからんし、この劇での無線機がただの空き箱だったみたいな
そんな状態。
で、また、この劇での事務所の仕事がね、20代の頃にいた職場と似たところで
自分が抗うつ剤飲みながら、他人の相談受けて
受話器を置くときに「今、1人死なせたかも」って多分過剰に考えたり。
ああ、でもその頃の同僚は全然そんなこと思ってないかも。


そんな「信じていたものがなくなってしまった」なんて、
手垢まみれの感情で、元軍国少年少女だった老人の嘆きにも
69年あたりの思い出をを熱く語る世代にも、距離をとろうとしている。
自分がそれと同じなのか、今もわからない。



そんなこんなで、まるで自分を見るような芝居だったよ。
気持ちが定まらないような、それでも日常をこなして生きていても
土星人が小出しに襲撃に来ちゃうのも、あるよなあ。
人生時々対応に困る土星人に接近遭遇して襲われるって。


自分が松尾スズキにちょっとキュンと来た他は、明確な「萌えどころ」がないし
つまんないと言うお客の意見も、そりゃ少なからずありそうな感じはした。
でも、客席は笑い声も結構あった。