震災から4ヶ月

このところ体調不良が続いているのは変わらないんだけれど
それでなんだかかつてないくらいにブログの更新も減ってるんだけど。

服薬しつつ、無理にでも食べる方式で体はなんとかなっているので
予定通りに岩手県津波の被災地に8日間ばかり出張に行ってきた。
被災地に仕事しに行って自分が個人的に具合悪くなってしまったら
とんだご迷惑ですが、なんとこの出張中は自分で驚くくらい健康でした。


被災地の津波被害の状況は震災から4ヶ月を経ても、言葉を失う光景が
車で通る道の両側に荒涼と続いていた。


ガレキの撤去は支援者や地元の人たちが本当に頑張り続けているので
着々と進んでいて、震災直後の報道で見たような
倒壊家屋や壊れた自動車や打ち上げられた船が混ざって高く積もっているような
ところは、私たちが行った地区ではもうほとんどなかった。


自動車とか鉄骨鉄筋ガレキとか、広い面積に広がっていたものが一定の場所に
集められていたし、木造の流出家屋は大半が撤去されていた。


そうすると、広い広い沿岸地区の平らな土地は、
道路の両側に平らにコンクリートの基礎はその上に何もなく延々と広がり
その合間の平らな地面には
まだ低く点々と置かれたガレキの間に草が生え始め
鉄筋コンクリートの建物はその柱と壁を吹きさらしの枠のように保ち
大きく歪んだ鉄骨だけのむき出しの姿や
四方の壁もしっかり直立しているのに強大な力がガラスを破り
通り抜けて吹き抜け状態になっている建物が点々と並ぶ。
津波のときにプロパンガスからの発火など多発したことで火災が広がったため
窓のあったところの周りの外壁は黒くなっているものが多い。


避難所では、仮設住宅への引越しの準備作業中の人が多い。
小規模な避難所はすでに閉鎖されているところも多い。
しかし小学校や大きな体育館の避難所では
今も一疊にも満たないスペースでダンボールの上に銀色のシートを強いて
他人とほんのわずかな距離で並んで眠る生活が4ヶ月以上続いている。
炊き出しもそんなに各避難所でしょっちゅうするものでもないので
基本は朝は菓子パン2個が配られ、昼夕は弁当が配られる。
健康な人は高齢でも避難所からガレキ撤去の作業に通う人が多い。
だから、昼間の避難所は引越し作業の人や
病人や高齢者などが少人数残るくらいですいている。
被災した人たちは漁業・水産関係の仕事をしていた人が多い。
活発に互いに声を掛け合う女性たちの間に所々で、いかにも海の男然とした
中年の男性がむっつりと太い腕を見せながら無言で横になっている。


とつとつと話しかけてくれたおじさんは、
自宅が流出したときの光景が忘れられない、
自分も元消防団員なので消防車に乗ろうと駆けつけたが先に来た隊員が
出動させていて、その人は避難誘導の途中で飲まれて亡くなってしまった。
ガレキに挟まれて流されていく人達を見ていてもどうすることもできなかった。
そんな話をぽつりぽつり語りながら、自分が生き残ったのが良かったかどうか
わからなくなると言っては、奥さんに涙目で「家族でうちはこれからだから」と言われ、でも体に力がまだうまく入らないようで、背中を丸める。
無口な男性はいろいろな気持ちをなかなか女性のようには話さないから
体調も気持ちと一緒にいっぱいいっぱいになりがちだ。

高齢の女性は、亡くした親戚のことや昔の思い出と
失った家財と若かったときの話などごっちゃまぜに話して話して何度でも
家族に怒られるまで繰り返し話して、それでそこから体調も気力も回復していく
人が多いのではないかと思う。


私が行ったときは3連休も含んでいたので、ボランティアさんも大勢来ていた。
避難所の中ではマッサージをする、パーマをかける、子どもと遊ぶ、子どもに勉強を教える、コーヒーを入れる、その他様々なボランティアさんがいっぱい。


外ではマスクと軍手着用、スコップ持参でガレキ撤去とか、片付けとか。
大勢乗ってきたであろうボランティアバスがあちこちに止まっているが
とにかくひとつの町の地区のほぼ全体が広範囲に津波にさらわれているので
20〜30人くらいの団体が作業していても
広い景色の中の小さい点のようになる。しかしその積み重ねもあって
ここまで片付いたんだろうと思う。
そして平日になると、あちこちでユンボやトラックやフォークリフトなど
重機が一斉に稼働する音が聞こえる。
前向きな気持ちで皆が労働している音に聞こえる。