夏目漱石「こころ」読書感想文
昨年の高2の夏休みの宿題の「こころ」の読書感想文を、
読まずに書いてしまった娘に代わって、私が書いてみる。
感想文なんて学校の成績を良くしようと思わなきゃ何でも書いちゃえばいいんだ。
「こころ」を読んで〜致死性の記憶に捉まりそうになっても生き延びろ
主人公の男子大学生は明治時代とはいえすでに随分大勢で賑わっている
鎌倉の海水浴場で1人で宿に長く連泊しては
日々浜辺の海の家に行って1人海水浴の毎日をすごす。そのことについては
彼自身は何ら居心地の悪さなども感じていないようで、むしろ愉快な気分で
泳いだり砂に寝そべったり茶屋でやすんだりしている。
そしてその日々の中で最も主人公が強く興味を持ったのは浜辺の婦女子でも、
海の生物や自然現象でもなく、やはり1人海水浴をする「先生」だった。
でもそんな不思議さを気にしていたら先に進めないのでスルー。
しかし「先生」がやはりそのように1人海水浴の日々を長くすごしているのは
危険行為であろう。
この表紙はこの小説の内容を1枚の絵にまとめたらこうなったと思う。
先生の隣にはいつもKに関する致死性の記憶がいる。
大人は往々にして致死性の記憶を持っている。
自分のしたこと、言ったこと、それはなかったことにはできないし
その記憶は自分が存在し続ける事を許そうとしない。
人は致死性の記憶に捉まらないように次々に何か違う事を思いながら
あくせくと日常生活を送る。
妻を家に残して、賑やかな海辺で単独で毎日のんびり過すとは
過去の記憶の襲撃に自ら身をさらしに行っているようなもんじゃないか。やがて乃木将軍の殉死があり、先生の自死の決意は固まる。
致死性の記憶に殺られたよう見えるそれは感染力を持つ。
もうそうなると、残った奥さんはどうなるんだとかの理性は負ける。
無念だ。「私」が危篤の親を振り切ってでも駆けつけてしまうほどに
それは阻止したいことだ。
致死性の記憶に殺されないために、人は物語を作るのではないか。
悪人にとっての蜘蛛の糸とか、ドストエフスキー作品における
大地への接吻とかも。
何でも自分はまだ生きていても良いんだと自分に言い聞かせる手段として。
「死ねばいいのに」の呪縛の中で生き延びるためのずるさこそが何よりも重要だ。
生き延びる醜さを愛するし、美しく死ぬやつは愛さないように頑張る。
私はブッシュ大統領が大好きだ。
ニュース番組で、こいつの起こした戦争で死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親の映像の
直後には、こいつがお祭り会場で満面の笑顔でバカな踊りを踊っている姿が映った。
世界の何千人、何万人からリアルタイムでガチの「死ねばいい」が聞こえてきたって
こいつは平気で笑って踊っていられるに違いない。
致死性の記憶に殺されるところから世界で最も遠い人物。
北京オリンピックの開会式でも客席で心からの笑顔を見せていた。
理不尽な理由で空爆された国の選手たちを見てもその笑顔は曇らないんだろう。
自らの致死性の記憶に捉まりそうなときは
ブッシュのバカ笑顔を見て生き延びることを自分の手段にすると良いと思う。